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テレマン:クライネ・カンマー・ムジーク全曲演奏会

プログラムノート改訂版)を掲載しました。
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La PETITE MUSIQUE de CHAMBRE
Die kleine Cammer = Music
von Telemann

テレマン作曲
小室内楽曲集

Partia 1  組曲 第1番 変ロ長調
Con affeto - Aria 1 (Presto) – Aria 2 (Dolce) – Aria 3 (Vivace) – Aria 4 (Largo)- Aria 5 - Aria 6 (Allegro)

Partia 2  組曲 第2番 ト長調
Siciliana – Aria 1 (Allegro) – Aria 2 (Allegro) – Aria 3 (Vivace) – Aria 4 (Affetuoso)-Aria 5 (Presto) – Aria 6 (Tempo di Minue.)

Partia 3  組曲 第3番 ハ短調
Adagio – Aria 1 (Presto) – Aria 2 (Vivace) – Aria 3 (Vivace) – Aria 4 (Allegro)- Aria 5 (Vivace) – Aria 6 (Presto)

***** 休憩 (20分) *****

Partia 4  組曲 第4番 ト短調
Grave – Aria 1 (Allegro) – Aria 2 (Allegro)– Aria 3 (Tempo di Minue.)- Aria 4 (Allegro)– Aria 5 (A tempo giusto) – Aria 6 (Allegro assai)

Partia 5  組曲 第5番 ホ短調
Andante – Aria 1 (Vivace) – Aria 2 (Presto) – Aria 3 (Vivace) – Aria 4 (Siciliana) – Aria 5 (Vivace) – Aria 6 (Presto)

Partia 6  組曲 第6番 変ホ長調
Affetuoso – Aria 1 (Presto) - Aria 2 (Vivace) – Aria 3 (Tempo di Ciaccona)- Aria 4 (Allegro) – Aria 5 (Allegro)– Aria 6 (Tempo di Minue.)


リコーダー:小池 耕平
ヴィオラ・ダ・ガンバ:中野 哲也
チェンバロ:脇田 美佳
ヴァイオリン:小池吾郎(組曲第6番のみ) 

2008.4.17.近江楽堂

G.Ph.Telemannテレマンが1716年9月にフランクフルトで出版した「小室内楽曲集」として知られる曲集の初版タイトルはkleine Cammer=Musicと記されている(1728年の第二版ではまずフランス語で“La PETITE MUSIQUE de CHAMBRE”そしてその下に“Die kleine
Cammer=Music”と記されている)。

この曲集のタイトルは、ドレスデン宮廷の楽団名に由来している。ドレスデン宮廷には“Grosse Cammer-Musique”(大室内楽団)いう大編成のオーケストラと、“Kleine Cammer-Musique”(小室内楽団)という小編成のアンサンブルとがあった。曲集のドイツ語のタイトルにも楽団名にも、英語やフランス語風のスペルが混じっている。

その名前のスペルと同様に、ドレスデン宮廷の楽団はヨーロッパ中から有能な音楽家が集められた多国籍のものだった。そこには今日でも有名な名前が多数見出せる。たとえば、Abel アーベル(ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者、後にJ.Chr.バッハと共にロンドンに渡る)、Buffardin ビュファルダン(フランス人フルート奏者。J.S.バッハのフルートソナタは彼のため?)、Quantz クヴァンツ(ドレスデンではオーボエを吹いていたがフルートに転向してベルリン宮廷に仕えた)、Pisendel ピゼンデル(独)、Veraciniヴェラチーニ(伊)、Volumier ヴォリュミエ(仏)といったヴァイオリン奏者、リュートの Weiss ヴァイス、等々。

4人のオーボエ奏者への献辞が初版に掲載されている。(現在容易に入手できるファクシミリであるFuzeau版は1728年に再版された第2版がもとになっており、残念ながら献辞は含まれていない。今回はMusia Musica版(絶版。こちらも楽譜自体は第2版を底本にしている)に掲載されている英訳を参照した。)
その4人の奏者とは、まず、フランス人でロンドン~オランダと渡り歩いて活動した後にドレスデン宮廷楽団に入った François La Riche ラ・リッシュ。彼は17世紀後半にフランスで新しく開発されたこのオーボエという楽器の最初期の専門家である。
ラ・リッシュの弟子で20歳からドレスデン宮廷楽団に所属した Johann Christian Richter リヒター。
同じくドレスデンでラ・リッシュに学んだ後テレマンがいたライプツィッヒ宮廷で働き、その後ダルムシュタット宮廷楽団へと移動した、リコーダーやフルートの名人でもあった Johann Michael Böhm ベーム。
ベルリンでフリードリヒ1世から2世の時代にかけてオーボエ奏者としてまた教師として活動した Peter Glösh グレッシュ(彼もまたラ・リッシュの薫陶を受けていた可能性がある)。
彼ら4人は、1716年5月にテレマンが作曲したオーストリア皇太子の誕生を祝うセレナータ上演のためにフランクフルトに集まったのである。テレマンは後に(1718年)評論家Matthesonマテゾンに宛てた手紙の中でこの時のグレッシュの演奏を高く評価している。「小室内楽曲集」は同年1716年の9月に出版されており、彼ら4人がフランクフルトに来演したことが作曲のきっかけになったようだ。テレマンの献辞はオーボエという楽器そしてこの4人に対しての賛辞に始まり、作曲に当たって留意したことが説明されている。それはオーボエという楽器の特性に配慮したもので、1)音域をなるべく狭くした、2)幅広い跳躍は避けた、3)輝かしい響きを得られるように、くぐもった音色や扱いづらい音は避けた。4)それぞれのアリアを短くするために最大限の労力を傾けた。そして、5)和声に関しては、半音進行はほとんど使っていない。
テレマンはオーボエがいかにバテやすい楽器であるかをよく知っていたのだ。(いまだにオーボエという楽器は演奏の困難さで知られており、ギネスブックに最も難しい木管楽器として掲載されている。)ほとんどの楽章がスコアで1ページ(横長の楽譜で3段!楽章によってはたったの2段!)に納まっており、2ページにわたる楽章は少ない。通常は長大に作られるシャコンヌ(組曲第6番のAria 3)でさえ4段(46小節)しかなくあっけなく終わってしまう。また、それぞれの曲が短いだけではなく付されたタイトルも素っ気ない。組曲は6曲全て、序奏となる楽章の後にただ単に“Aria”アリアと題された6つの楽章が続き、表題を持つものは一つもない。組曲によって含まれる楽章の性質や配列はまちまちで統一性は見られないが、楽章のヴァラエティは大変に豊かで、歌唱的なもの(組曲第1番Con affetoのようにオペラアリアの形式だったり、同組曲Aria 2のように子守唄風だったり)もあり、対位法的なドイツ風(組曲第6番Aria5、あるいはインヴェンション風の第1組曲Aria1など)あり、イタリア風やフランス風、はたまたテレマンがいつも自分の音楽様式の第一の特徴だというポーランド風(組曲第3番Aria1、第4番Aria1などが典型的)など多様な舞曲ありで、様々なスタイルによっている。
短い小さな曲ばかりで構成されていることが、曲集のタイトルとその中身を強く関連付けており、しかも楽団名とも共通しているという、なかなかにおしゃれな曲集である。
テレマンの言う通り音域は狭く、下はd’から上はh''までの1オクターヴ半強。跳躍音形が特徴的な楽章も散見されるが、フルート用の作品のように2オクターヴにわたるようなことはなく(オーボエのもともとの音域が狭いせいでもあるが)たまにせいぜい1オクターヴ跳ぶことがある程度だ(しかしオーボエにとってはその1オクターヴの跳躍が厳しいことも多いのだが)。楽章によってはメロディーが本当に狭い範囲の音域でしか動かないものがある(組曲第1番Aria 2など)。しかし、このことが音楽の表現の幅を狭めているわけではないのがテレマンの面目躍如たるところだ。
当時の木管楽器では半音階を出すためにクロス・フィンガリング(ひとつおきに穴をふさぐ運指)を使うか指孔を半開にする(ダブルホール仕様の楽器の場合はその片方だけを閉じる)必要があるが、それは必然的にくぐもった音色を生み出すことになる。テレマンは使うのを避けたとは言っているが、半音進行は曲のあちこちに見いだされ、味わいを豊かにしてくれている(極端に半音階的なのは組曲第4番の第1楽章Grave)。

本日の演奏には、2本のソプラノリコーダー、譜久島譲製作のE.Tertonテルトン・モデル と J.Steenbergenステーンベルヘン・モデルを使用する。元になったメーカー二人はともにオランダ人で同じ1676年生まれながら、かなり異なったタイプの楽器である。テルトンは1710年(34歳の時)に17世紀後半からオランダの木管楽器製作の中心地だったオーファーライセル州の町ライセンからアムステルダムに移り住んだ管楽器製作者。ステーンベルヘンはロンドンからアムステルダムに移住してきたR.Hakaハーカの弟子であり、1700年には独立していたようだ。         (小池耕平)
by flauto_diritto | 2008-04-17 19:00 | Flauto diritto
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