小池耕平リコーダーリサイタル
イタリアの道 flauto diritto 2012年 東京公演 10月11日 19:00開演 東京オペラシティ「近江楽堂」 大阪公演 11月4日 15:00開演 アンリュウリコーダーギャラリー「タケヤマホール」 作曲家別シリーズ 第5回 F.M.ヴェラチーニ Francesco Maria Veracini (1690 - 1768 ) プログラム ソナタ 1番 へ長調 * Sonata Prima * Largo e nobile - Allegro - Largo - Allegro ソナタ 9番 ト短調 * Sonata Nona * Cantabile - Andante - Adagio - Allegro ma affetuoso ソナタ イ短調 (ブリュッセル手稿) ヴァイオリンソナタ集 作品1(1721年)より (18世紀前半のリコーダー用編曲版) Sonata La minore : ms. Bruxelles Overtura ( Largo - Allegro - Adagio ) - Allegro ( Larghetto, Allemanda ) - " Paesana " ( Allegro ) - Largo - Giga ( Allegro, "Postiglione" ) ~~~ 休憩 (20分) ~~~ ソナタ 10番 ニ短調 * Sonata Decima * Cantabile - Allegro - Cantabile - Allegro ma affetuoso ソナタ 4番 変ロ長調 * Sonata Quarta * Largo e nobile - Larghetto - Largo - Allegro ソナタ 3番 ニ短調 * Sonata Terza * Largo - Allegro - Largo - Allegro * ヴァイオリンまたはリコーダーと通奏低音のためのソナタ集(1716年)より * XII sonate a violino o flauto solo e basso : ms. Dresden 1716 祖父や叔父もヴァイオリン奏者であったフランチェスコ=マリア・ヴェラチーニは幼い頃から叔父アントニオ・ヴェラチーニにヴァイオリンを習い共に演奏していた。また、オルガン奏者で作曲家のカジーニにも師事していた。1711年11月にはヴェネツィアに行き以降そこを活動の拠点とした( 21歳 )。1712年の2月にコンチェルトを自作自演し、春にはオラトリオを作曲するなど活発な活動を展開している。実際タルティーニ(ソナタ「悪魔のトリル」で有名)やロカテッリなど他のヴァイオリン奏者にも大きな影響を与えたヴェラチーニは、ヴァイオリンの名手としての側面が強調されている。しかしソナタやコンチェルトなどの器楽曲ばかり作曲していたのではなく、若い頃から声楽曲の作曲もしていたのである。 多くのイタリア人音楽家がそうしたように、ヴェラチーニもロンドンで演奏活動をしている。最初は1714年、2回目は33年から38年、最後に41年から45年。最初の滞在時にはヴァイオリン演奏のみだったが、あと2回の長期滞在の時には演奏会だけではなく合計4つのオペラの作曲上演にも携わっている。ヴェラチーニのヴァイオリンはロンドンでは大変に好評だったようで、慈善演奏会、私的な小さな演奏会、オペラの幕間でのコンチェルト演奏など、とても頻繁な演奏活動を行っていた。 1716年にヴェネツィアで浄書された「ヴァイオリンまたはリコーダーのための12のソナタ」は、ドレスデンのザクセン選帝候の王子フリードリヒ・アウグストに献呈されている。これはドレスデンの宮廷オーケストラへの就職活動の一環だったようで、ヴェラチーニは翌1717年に同楽団のメンバーとなっている。ドレスデンの “Grosse Cammer-Musique” ( 大室内楽団 )は当時のヨーロッパでも有数のオーケストラで、各国から集められた優秀な音楽家がそのメンバーとなっていた。ヴァイオリン奏者にはヴォリュミエ Volumier やピゼンデル Pisendel などそうそうたるメンバーがおり人員補充の必要はなかったにもかかわらずヴェラチーニが採用されたのは王子のおかげだと言えよう。1月にドレスデンに到着したヴェラチーニは当初は選帝候アウグスト強健王の個人的な音楽家として雇われ11月からヴァイオリン奏者として宮廷楽団に入っている。ここでヴェラチーニは大変に厚遇され、給料は楽長と同額で他の作曲家よりも高額。作曲作品に対しては別に対価が支払われ、イタリアに歌手採用のために派遣されたこともあった。 1716年の12曲のソナタは全て四つの楽章で作られている。アルビノーニやヴィヴァルディなど同時代の他のヴェネツィアの作曲家のヴァイオリンソナタと同様に、重音奏法も少なくフーガのような対位法的な要素も見られない。重音が使われないのはリコーダーで演奏する可能性を前提にしていることによるかもしれない(6番のソナタで2カ所だけ重音が要求されている箇所があるのみ)。同じメロディーがそのまま繰り返されることが多いのが特徴で、ある一つの短い音形を何度も繰り返すところさえある。しかも、曲の後半に最初のメロディーが冒頭と同じ主調で再現されることが多いのがこの時代には珍しく、次の時代を先取りしたような様相さえある。曲によっては半音進行が特徴的に用いられている。 ブリュッセルの個人蔵の18世紀の筆写譜にあるイ短調のソナタは、ヴェラチーニの作品1のヴァイオリンソナタ集からリコーダー用に編曲されたものである。作品1の1番のソナタからの第1、3、5楽章の間に、6番の第2楽章、7番の第4楽章が組み合わされている。このように別の曲からの楽章を組み合わせることは18世紀にはよくおこなわれていた。実際、作曲家が自作の楽章の組み替えをすることさえあり、たとえばヴェラチーニが自分の作品1の第1番の本来の第2楽章としたのは彼の1716年のソナタ集の第9番の第4楽章に少し手を加えて流用した同じ音楽である。 イタリア人音楽家の初の出版作品であるソナタ集がフランス風序曲で開始されるのは国際派ヴァイオリン奏者ならではのことだ。第2楽章に使われたソナタ6番の2楽章はヴァイオリン用の原曲では Allemanda ( Larghetto )であるがこのリコーダー版では Allegro にされている。第3楽章パエザーナ Paesana はピエモンテ州トリノの南西にある小さな村の名前。第4楽章は1番の原曲ではフランス風の小さなメヌエットだが、かわりに7番のソナタから取られたいかにもイタリア風の緩徐楽章が置かれている。最終楽章のジーグには郵便馬車を駆る「馭者 postiglione 」の描写が繰り返しあらわれる。ポストホルンの音や鞭を振るうような音形が馬が駆ける様子を表す通奏低音の動きに乗って聴こえて来る。 おそらくリコーダーにも音楽にもよく通じた人の手になる編曲で、リコーダーの苦手な音域を避けたり音域が足りない時に音形を変えたりと上手に処理している。しかし残念なことに、それが時折行き過ぎになっていることもある(第2楽章の特徴的なスラーの単純化や通奏低音の音形の大幅な変更、あるいは最終第5楽章の鞭打ちを描写する音形を全く変えてしまったこと、など)。今回の演奏にあたっては、元のヴァイオリン版に近づけるべく再編曲をおこなった。 ヴェラチーニは、そのヴァイオリン演奏がロンドンなど各地で大好評で受容され様々な人から賞賛された反面、風変わりで嫌なやつだったという証言もいろいろと残されている。ドレスデン時代にはその雇用待遇もあって周囲から嫌われていたようで、同僚の喧嘩に巻き込まれて3階の窓から飛び降りて足に一生残る障害を負っている。1720年代にフィレンツェに戻っていた時期には「頭のおかしな奴」と呼ばれていたようだし、他の奏者の嫌がらせに高慢な態度で仕返しをした逸話も残されている。 1745年以降フィレンツェに戻り最晩年に至るまでのヴェラチーニは教会音楽家として活動しヴァイオリン演奏も続けた。金銭よりも独立心を重んじたためにいくつかの高い地位を失ったとも伝えられている。時流に目もくれずに対位法の研究に熱中し、音楽理論書「実践上の音楽の凱旋」を著していることもそういった彼の気質を示している。3つ残されているヴァイオリンソナタ集だけとって見ても、後になるに従って対位法的な要素が濃くなっている。 数カ国を股にかけて演奏活動をし、年を経るに従って作曲や理論にのめり込み、傲慢不遜で同業者たちに嫌われた天才的ヴァイオリニスト、と言うと現代にも同じような音楽家がたくさんいそうな気がする。性格はともかく、ヴェラチーニと同様に幅広い活動をしたヴァイオリン奏者は、同じ時代に他にも出て来ている(ジェミニアーニなど)。 ヴェラチーニ略歴 1690年2/1、フィレンツェに生まれる。 1711年12月以前にはヴェネツィア 1712年2/1、コンチェルト自作自演。ヴェネツィア 春、オラトリオ「無実を証明された聖ニコライの凱旋」演奏、フィレンツェ。 3/19ヴェネツィアでタルティーニがその演奏を聴いてショック受ける 1714年、1/23~12/24ロンドンで慈善演奏会とクイーンズ劇場でオペラの幕間のソリスト。 1715年、デュッセルドルフのライン・プファルツ選帝候の宮廷(ボンポルティのソナタ演奏。オラトリオ「紅海のモーセ」献呈)。 1716年7/26、ヴェネツィア「ヴァイオリンまたはリコーダーのための12のソナタ」 1717年1/25、ドレスデン到着。(当初は王子の個人的な雇用。11/25から宮廷に。) 1719年2月、ボローニャとヴェネツィア(歌手のスカウト) 1721年、「ヴァイオリンソナタ集Op.1」 1723年2月以前、ドレスデンを辞めてプラハ経由でフィレンツェ帰還。 オラトリオの作曲、演奏を頻繁にする(たとえば1730年7/20~21、フィレンツェ出身の教皇クレメント12世を祝うミサ曲とテデウム)。 1733年4/9~27、ロンドンに移動。数多くの演奏会。 1735年11/26~、貴族オペラで初のオペラ作品「シリアのアドリアーノ」(20回)。 1737年4/12~23、第2作オペラ「皇帝ティトゥスの慈悲」(4回) 1738年3/14~6/6、第3作オペラ「パルテーニオ」 1738~39年、フィレンツェ帰還。 1741年2/28、再度ロンドン。ヘンデルの「アキスとガラテア」の幕間にコンチェルト演奏。 頻繁にオペラの幕間や演奏会に登場 1744年1/31~、最後のオペラ「ロザリンダ」(10日間) 「アカデミック・ソナタ集0p.2」 1745年、フィレンツェに帰還(途中ドーヴァー海峡で事故) 1755年~、サン・パンクラツィオ教会の楽長 1758年~、サン・ミケーレ・アリ・アンティノーリ教会の楽長 1760年、音楽理論書「実践上の音楽の凱旋」 1765,66年、大公の宮廷でヴァイオリン演奏 1768年10/31、フィレンツェで没。
by flauto_diritto
| 2012-10-11 18:50
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